社会の息苦しさ ~新幹線の親子~

日常

年末年始の移動をしていますが、新幹線で子供がうるさくて仕方ありません。

親は完全に知らんぷりで、

スマホを我関せずという感じでいじっています。

子供は幼稚園児くらいかそれより小さいくらいでしょうか、

ママに構ってほしい、あるいはなにか訴えかけているとった状態です。

新幹線の普段は静かな空間のなかで、

あれだけ大音量で騒がれると、正直びくっとしてしまいます。

この状態が、微笑ましいと思える自分であればいいものの、

そう感じないのが事実です。

ただし、完全に感情的になっているわけではありません。

ここでは、

何故このような問題が生じるのか根本的な理由を考えました。

コミュニケーション多様性、コミュニケーション総量の減少が背景的な原因としてあるのではないかと思っています。

状況を自分自身で変えられること変えられないことの線引が明確にできていない。

だから、イライラしてしまうのではないか。

座席的には手を伸ばせば届くような距離にいるのに、

なぜか関わってはいけない空気ある。

他人だから、そう、他人だから。

でも、その他人が同じ空間、時間を共有しているのが公共の場である。

おそらく、動物的・生理的には自分の対処の範囲内であるのだけれども、

社会的・精神的にはものすごく距離が実はあって、

その乖離に自分自身が苦しんでいる。

対処できそうなのだけれども、なぜか対処できない。

何か期待しているものを裏切られたような気持ちになってしまい、

イライラにつながってしまう。

このような私のように思いをしている側に欠けていることは二つ考えられて、

・自分は変えられる、他人は変えられないという考えのもと、

ただイライラするだけなのであれば、

自分がその場から潔く離れればよい。(これは実際難しかったのですが)

現代社会の弊害として、

生活が便利になり、

個人、あるいは小さい単位の組織で物事や生活が完結するようになってきています。

大体のものはアマゾンで頼めるし、

わからないことがあれば、人に聞く必要は基本なくて、

Googleさんや、YouTube、chatGPTに聞けばそれなりの正解がわかります。

この便利な文脈の中では、

コミュニケーション不足や、あらゆる場面でのコミュニケーション能力が鍛えられないまま、

人間関係に関する耐ストレス性が極度に低下し、

免疫が減少しているんでしょうね。

あるいは、

・心理的距離はあるものの、

私と同じように感じている人もいるかもしれない。

心理的距離を引いているのはほかならぬ自分であり、

一言だけでもいいので、勇気を振り絞って声をかけてみる。

そうすると、

子供はうるさいままかもしれないけども、

親には、失礼なことを言い返されるかもしれないけれども、

その親子に自分が関わっているという感覚が醸成されて、

不快な気持ちも緩和され、妙に納得した気持ちになれるのではと思います。

こうする人は昔に比べて極端に少なくなっている感覚があります。

何か息苦しい、あいまいな空気間を感じてしまっている自分がいます。

真剣に考える機会を与えてくれた親子に感謝です。

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